黒い家

MIMIBUNKO

「黒い家」オーディブル版 ― 「頑張っても無駄だ」の反対側にいる人間

2026.08.10

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今朝、統制感という言葉を学んでいた

今朝、学習性無力感について学んでいた。「頑張っても無駄だ」と感じてしまっている人に、励ましの言葉はほとんど効かない。効くのは、小さい行動が確実に結果につながる体験を、一つ実際に作ってやること。それだけらしい。

そこにセットで出てくるのが説明スタイルの話だった。失敗を伝えるとき、「あなたが悪い」「いつもそう」「全部ダメ」という言い方をしない。「今回のこの条件で」「今回だけ」「この一点だけ」に絞る。そうすれば相手の統制感を壊さずに済む。

統制感。自分の行動が、世界に届いているという感覚。それを壊さないように、人は人に接する。……そこまで読んで、ふと止まった。じゃあ、最初からそれを持っていない人間は、どうなるんだろう。壊すも何も、無い人間は。そういえば、と思い出した本がある。貴志祐介の「黒い家」だ。

保険会社の窓口に、それは座っている

主人公の若槻慎二は、生命保険会社の京都支社で、保険金の支払い査定をしている。地味な仕事だ。書類を見て、事故なのか病気なのか、払うのか払わないのかを決める。窓口には毎日いろんな人が来る。泣く人。怒鳴る人。それをさばくのが日常。

ある日、顧客の家に呼び出される。行ってみると、家の中で子供が首を吊っていた。第一発見者になってしまう。しばらくして、その子の死亡保険金の請求が来る。書類は、整っている。

ただ、若槻はその顧客の態度に違和感を持ち続ける。何かがおかしい。でも書類は整っている。ここが恐ろしいところで、この物語のスタート地点は超常現象でも殺人鬼でもなく、「事務処理としては通ってしまう」という一点なんです。通してしまえば終わる。通してしまえば、自分は無事でいられる。それを通せなかった人間の話です。

耳から入ってくる恐怖は、目で読むそれとは別ものでした。
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何をしても届かない相手というものが、いる

この本の芯は、たぶん恐怖ではない。無力感のほうだ。

若槻はまじめに動く。調べる。上司に相談する。警察に言う。手続きを踏む。ぜんぶ、社会人としては正しい。でも、正しい手続きは、正しさが通じる相手にしか効かない。相手が「話せば分かる」の外側にいたとき、こちらの正しさは何の防御にもならない。押しても引いても、手ごたえがない。そういう相手が、この世界には実在する。

今朝学んだ「小さい行動が確実に結果につながる体験を作る」という介入は、裏返すと、そういう体験を一つも作れない相手には何の効き目もない、ということでもある。この物語で若槻がじわじわ削られていくのは、殴られるからじゃない。何をしても、状況が一ミリも動かないからです。仕事で擦り減るときの感触に、少し似ている。理不尽な相手そのものより、理不尽が制度の上を平気で歩いていくのを見せられることのほうが、人を疲れさせる。

乃神亜衣子さんの声は、悲鳴を上げない

これを目で読むと、たぶん「文字の怖さ」になる。耳で聴くと、まったく別のものになった。

ナレーターの乃神亜衣子さんは、怖いところで声を張らない。恐怖の場面ほど、淡々としている。事務の声のまま進む。だから、こっちの背中が勝手に冷たくなる。悲鳴を代わりに上げてくれないと、逃げ場がないんです。誰も「これは怖い場面ですよ」と教えてくれない。日常の音量のまま、日常でないものが混ざってくる。

そして電話。この作品にはやたらと電話が出てくるんですが、声で聴く電話は、文字の電話とは重さが違う。相手の呼吸の間、こちらの返事が遅れる一秒、切れたあとの空白。読んでいるときは飛ばせてしまう「間」が、音声だと飛ばせない。相手が黙っている時間を、こっちも黙って待たされる。あれは、耳でしか味わえない恐怖でした。

聴き終えて残ったのは、恐怖ではなかった

聴き終わって残ったのは、悲鳴ではなくて、静かな疲れみたいなものだった。「怖かった」ではなく、「こういう人が、いるんだな」。

この物語がすごいのは、化け物を出さないことだと思う。書類を出す。窓口に座る。手続きをする。全部この社会の作法どおりに動きながら、中身だけが決定的に違う。だから読み終えたあとも、世界の側は何も変わっていない。今日も普通に窓口は開いている。

変な話ですが、聴いたあと、朝の学びのほうがちゃんと自分の中に落ちてきた。統制感を壊さないように人に接する、というのは、相手を守るためでもあるけれど、こちらが人間の世界の中で仕事をしていられる、その足場を守るためでもある。話せば通じる、が成立している場所にいることの、ありがたさ。眠れない夜に聴く本ではないかもしれない。でも、眠れない夜に、聴いてしまう本ではあります。どこへ向かうのかは、耳で確かめてください。


ここまで読んでくれた、あなたへ。
その物語の、入り口です。

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