天使の囀り

MIMIBUNKO

「天使の囀り」オーディブル版 ― 「みんなそう思ってる」がいちばん怖い

2026.09.05

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今朝、「多元的無知」という言葉を覚えた

今朝、多元的無知という言葉を学んでいた。1931年に名付けられた古い概念らしい。集団の全員が、内心ではその慣習に反対している。なのに互いに「反対しているのは自分だけだ」と思い込んでいる。だから誰も言い出さない。誰も望んでいないものが、そのまま生き延びる。

面白いのは、これが「嘘つきが一人いる」という話ではないところだ。誰も嘘をついていない。全員が正直に、同時に、間違えている。それだけで集団は動いてしまう。

その説明を読んでいて、ふと背中が冷たくなった。私たちが「これはおかしい」と感じるかどうかは、周りを見て決めているのか。だとしたら、周りが全員おかしくなったら。私は、自分がおかしいと思うのか。それとも、自分のほうが正しいと思うのか。……そういえば、その質問をまるごと物語にしたような本を、去年の秋に聴いた。貴志祐介の「天使の囀り」だ。

死ぬのが怖かった人が、死に魅せられる

主人公は北島早苗。終末期医療に携わる精神科医だ。人が死んでいく場所で働いている。

彼女の恋人・高梨は、逆だった。病的なまでに死を恐れる人。タナトフォビア、と作中では呼ばれる。死という言葉を聞くだけで動けなくなるような人。それが、新聞社主催のアマゾン調査隊に参加して帰ってきてから、まるで別人になる。

あれほど怖がっていた死を、うっとりと語りはじめる。そして自ら命を絶つ。しかも高梨だけじゃない。調査隊の他のメンバーも、次々と、それぞれ異常な方法で死んでいく。アマゾンで何があったのか。早苗はそれを追いはじめる。ここから先、どう繋がるかは聴く人の楽しみに取っておきます。

耳から入ってくる恐怖を、一度体験してみてほしい。
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怖いのはグロテスクさじゃない

この本、確かに強烈な描写がある。苦手な人はいると思う。私も何度か息を止めた。

でも本当に怖いのは、そこじゃない。怖いのは、死を怖がっていた人が、心の底から幸福そうに死を選ぶところだ。追い詰められて死ぬんじゃない。絶望して死ぬんでもない。嬉しそうなのだ。本人にとっては、その世界がまったく正しい。

そこで今朝の話に戻ってしまう。私が「これは異常だ」と判断できているのは、外側にいるからだ。中に入ったら、たぶん分からない。全員がそう思っているように見えたら、私はそちらを正しいと思う。多元的無知は誰も嘘をついていなくても成立する。この物語の恐怖も、誰も嘘をついていない。ただ、みんな心から、そう思っているだけ。それがいちばん怖い。

耳から入ってくると、逃げ場がない

この本を、私は声で聴いた。ナレーターは乃神亜衣子さん。

紙で読むホラーは、目を上げれば止まる。文字は、こちらが読むのをやめれば黙る。でも音声は違う。止めない限り、続く。喋りつづける。耳をふさいでも、もう入ってきたあとだ。

そして声には、間がある。乃神さんの読みは、淡々としている。叫ばない。煽らない。淡々と、事実を並べていく。その淡々のなかに、一拍だけ、置かれる沈黙がある。次に何が来るのか分かってしまう沈黙。あれが、いちばんこたえた。イヤホンを外したのに、外したあとのほうが怖い。部屋が静かすぎて、さっきまで声があった場所が空いている感じがする。この本を夜に聴くのは、正直おすすめしない。おすすめしないけど、私は夜に聴いた。やめられなかった。

聴き終えて、残ったもの

読み終わって残ったのは、恐怖ではなかった。もっと地味なものだった。

私が「正しい」と思っていることの、どのくらいが自分の頭で決めたことなんだろう。どのくらいが、周りを見て決めたことなんだろう。たぶん後者のほうが多い。多くていい。人はそうやって社会をやっている。ただ、そうだと知っているのと、知らないのとでは、まったく違う。

今朝、多元的無知を学んだ。夜、この本を思い出した。学びのほうは「誰も言い出さない会議」の話だった。本のほうは、命の話だった。スケールはまるで違うのに、構造は同じだった。全員が同じ方を向いているとき、その方向が正しい理由には、ならない。

気力のない夜に聴く本ではない。でも、自分の輪郭がぼやけてきた夜には、効く。怖さで、輪郭が戻ってくる本だ。


ここまで読んでくれた、あなたへ。
その物語の、入り口です。

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