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今朝、私は「表示と実態のズレ」を勉強していた
今朝の勉強は、景品表示法だった。優良誤認表示、という項目。
面白かったのは、そこで引っかかるのが「すごい効果があります」みたいな大げさな宣伝だけじゃない、という部分だった。営業時間。設備の有無。サービスの内容。そういう、誰が見ても白黒つきそうな客観的な事実の表示も、実態とズレていれば対象になりうる。だから宿泊業向けの解説には、ホームページの写真と説明文が今の客室の実態と一致しているか、定期的に確認しなさい、と書いてある。
書いた人に嘘をつく気がなくても、ズレる。書いた時点では本当だったから。そのあと現場が変わったから。誰も直さなかったから。悪意ではなく、時間が嘘を作る。……そこまでメモを取ったところで、私は、まったく別のものを思い出していた。数日前に聴き終えた小説のことだ。人が口にする「本当のこと」も、これと同じ構造をしているんじゃないか、と思ったから。
被疑者が、自分を守らない
織守きょうやの「黒野葉月は鳥籠で眠らない」。教え子の女子高生への淫行容疑で、家庭教師の男が逮捕される。その弁護人になったのが、若手弁護士の木村龍一。
普通、逮捕された人は言う。やってない、と。あるいは、こういう事情があった、と。ところがこの被疑者は、非協力的なのだ。弁護人に対して、開いてくれない。自分を有利にする話をしようとしない。木村は戸惑う。ここが、この小説の入口。
私は聴きながら、ずっと落ち着かなかった。彼が黙っているのは、やったからなのか。やっていないのに、黙っているのか。黙る理由は、その二つだけじゃない。人が本当のことを言わない理由なんて、いくらでもある。守りたい人がいる。言えば別の何かが壊れる。言葉にした瞬間、それが自分の中の形と変わってしまうのが怖い。彼が何を守っているのかは、聴く人の楽しみとして伏せておきたい。
供述は「表示」だ
聴き終えてから、この小説の芯はどこだったんだろう、と考えていた。それが今朝、景品表示法の資料の前で、急に繋がった。
供述は、表示なんだ。誰かが自分の中身について、外に向けて出す表示。そして表示は、いつだって中身そのものではない。要約されている。都合が編集されている。何より、言った瞬間から時間が経つ。あのときの気持ちのまま今も立っている保証は、どこにもない。それでも捜査も裁判も、その表示を土台に進んでいく。
そう思って読み返すと、この小説がやっているのは、表示と実態の照合作業だ。木村がやっているのは、まさに「定期的に確認する」の一番きつい版。しかも本人が確認に協力してくれない。私はこの小説を、法廷ものというより、人が人の内側を推し量るときの限界と誠実さの話として聴いていた。ラベルの裏を見る、という仕事の話として。
堀曜宏さんの声は、断定しない
ナレーターは堀曜宏さん。この作品において、これは相当に効く配役だと思った。
というのは、この小説は「誰かの言い分をどこまで信じるか」で全編が動いている。だから声が少しでも肩入れすると、聴き手は誘導されてしまう。この人は嘘をついている、この人は正しい。文字ならグレーのまま置ける部分が、声だと色がついてしまう。ところが堀さんの読みは、断定しない。被疑者の言葉を、疑わしくも、正しくも読まない。ただ、そこに置く。
その置き方が、いちばん怖い。判断する材料が、こっちに全部投げられるから。私は運転しながら聴いていた区間で、何度か「今のは、どっちだ」と口に出していた。誰も答えてくれない。間だけがある。文字を読んでいたら私は無意識に、自分に都合のいい読み方の速度で通り過ぎていたはずの箇所を、声は勝手に通り過ぎさせてくれない。読み手のペースじゃなく、語り手のペースで進むというのは、こういうときに効く。
聴き終えて、残ったもの
終わったあと、しばらく次の本に行けなかった。
残ったのは犯人の話じゃない。人が黙るとき、そこには黙るだけの理由があるかもしれない、という一点。それだけ。当たり前のことだ。誰でも知っている。でも私は日常で、まったくそう扱っていない。返事が短い人を、機嫌が悪いと解釈する。説明しない人を、隠していると読む。相手の表示と実態がズレているとき、私が最初に疑うのは、いつも相手の誠実さのほうだ。実態のほうを見に行こうとしない。
今朝の資料に、こう書いてあった。定期的に確認しなさい、と。あれは掲示物の話だった。でも同じ言葉が、私の人間関係にも刺さる。あの人についての私の理解は、いつの表示のままだろう。更新した記憶が、ない。
怖い話ではないのに、聴き終えて背筋が伸びた本だった。誰かを裁く前に、もう一回だけ確かめよう、と思わせてくれる。そういう本が、たまに要る。