※本ページはアフィリエイト広告(PR)を含みます。
些細な基準で、人は線を引く
今朝、社会的アイデンティティ理論というのを学んでいた。1979年の理論。人はごく些細な基準でも集団を分けて、自分の側をひいきする。コインの表裏で二組に分けただけでも起きるらしい。些細な、というところが引っかかった。理由なんていらない、ということだから。
分けた瞬間に、内側と外側ができる。内側には理由なく親切にして、外側には理由なく冷たくなる。理屈じゃない。もう分けてしまったから、そうなる。
そういうことを考えていて、そういえば、と思い出した本がある。「禁忌の子」。自分と同じ顔をした死体が運ばれてくる話だ。内側と外側の線を、いちばん引きにくい場所に引かされる話でもある。
身元不明、キュウキュウ十二
救急医の武田のところに、一体の溺死体が運ばれてくる。身元不明。だから便宜上の名前がつく。キュウキュウ十二。番号だ。
その顔が、武田と瓜二つだった。
ここで手が止まるのが、この本の入口だと思う。他人の死体なら仕事として処理できる。番号として扱える。でも自分の顔をしていたら、番号のままにしておけない。彼はなぜ死んだのか。自分とは何なのか。武田は旧友の医師・城崎と一緒に調べ始める。そして、鍵を握る人物に会おうとした矢先、その相手が密室で死体になって見つかる。ここから先は、聴く人の楽しみだと思うので伏せる。
番号にした瞬間、外側になる
キュウキュウ十二という呼び方が、ずっと耳に残った。冷たいわけじゃない。身元が分からないから、そう呼ぶしかない。現場の合理だ。それは分かる。
でも、番号をつけるという行為そのものが、線を引く行為でもある。名前のある人と、番号の人。今朝の理論でいえば、まさに「些細な基準」だ。名前が判明しているかどうか、それだけ。それだけで、内側と外側に分かれてしまう。
この小説がすごいのは、その線が主人公の顔をしていることだ。外側に置いたはずのものが、自分と同じ顔で横たわっている。もう外側にできない。線を引いたつもりが、線の上に自分が立っている。医療ミステリとして読むと本格の骨格がしっかりある話なんだけど、私にはこの構造のほうが刺さった。
浅井晴美さんの、抑えた声
ナレーターは浅井晴美さん。
この本は声で聴いてよかったと思う。理由は、感情を出さないところにある。医療の場面は淡々としている。専門用語も、事務的な手順も、事務的に読まれる。そこが効く。現場は取り乱さないから。取り乱していたら仕事にならないから。その抑えた温度が続くからこそ、ふっと私情がにじむ一瞬が、はっきり分かる。
文字で読むと、その落差は自分で作らないといけない。声だと、向こうから来る。息が一拍遅れる。語尾がわずかに落ちる。ああ今この人、動揺してる、と分かる。書いてないのに分かる。それが耳で聴くということなんだと思った。
聴き終えて、残ったもの
謎は解ける。ミステリなので、ちゃんと解ける。そこは気持ちいい。
でも残ったのは謎の答えじゃなかった。線を引くことは、たぶん人間にとって避けられない。今朝の理論が言っているのはそういうことだ。些細な基準でも引いてしまう。だったら、消そうとするより、どこに引いているかを自分で知っているほうがいい。線の内側に、誰を入れているのか。誰を、番号のままにしているのか。
武田は自分の顔をした死体に出会ったから、そこに向き合わされた。私にはそんな出来事は起きない。起きないから、こういう本を聴くんだと思う。誰かの人生を借りて、自分の引いた線を見に行く。
眠れない夜に、ちょうどいい重さの本だった。重すぎない。でも、軽くもない。