ホテル・ピーベリー<新装版>

MIMIBUNKO

「ホテル・ピーベリー」オーディブル版 ― 「二度は来ないでください」と言うホテルがあった

2026.07.03

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今朝、逃げ道の話を読んでいた

今朝、学習性無力感というものを学んでいた。名前だけは知っていた。電気ショックに耐える力の話だと、ずっと勘違いしていた。違った。「これは、変えられない」と脳のほうが先に学習してしまう。そういう話だった。

面白かったのは、その先だ。近ごろの研究では、無気力のほうがむしろデフォルトなのだという。人はほうっておくと、動かなくなる。そこに小さな成功体験が――「逃げ道がある」という一点の気づきが、能動のスイッチを入れ直す。逃げ道。その言葉が、なぜか手のひらに残った。

残ったまま、この本を思い出した。仕事を辞めた男が、逃げるようにハワイ島へ渡る。近藤史恵さんの「ホテル・ピーベリー」。逃げ道を探しに行った人の話じゃないか、と思ったのだ。

リピーターを、受け入れないホテル

木崎淳平は、仕事を辞めた。理由は、聴いていくうちに少しずつ滲んでくる。彼はハワイ島のヒロという街を訪れる。観光地のきらきらではない。雨の多い、静かな街。

友人にすすめられたのは、日本人が経営する小さなホテルだった。ひとつだけ、変わった決まりがある。「リピーターを受け入れない」。一度泊まった客は、二度と泊まれない。だから、ここにいる人は全員、はじめましてで、そして二度と会わない。そういう約束の上に、その場所は建っている。

集まってくるのは、どこか一枚、日常から剥がれた人たちだ。深くは訊かない。訊かれない。朝が来て、コーヒーの匂いがして、また一日が始まる。事件らしい事件は、しばらく起きない。ただ、人が並んで、同じ海を見ている。それだけの時間が、長く続く。

逃げ道がほしい夜に、そっと開けておきたいドアの話。
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逃げてきた人しか、いない場所

この本の芯は、たぶん「二度は来ない」というあの決まりにある。今朝の逃げ道の話と、そこで繋がった。

逃げ道って、ずるいことみたいに言われる。でも違う。逃げ道があると分かった瞬間に、人はやっと息をする。ここは、逃げてきた人しかいない場所だ。全員が、何かから離れてここに来ている。だから誰も、その顔を責めない。責める資格のある人が、ひとりもいない。

淳平は、そこで何を回復させていくのか。強く握っていた手を、少しずつ開いていく感じ。変えられないと思っていたものの輪郭が、南の光の下で、ほんの少しだけ揺らいでいく。派手なことは、起きない。でも、確かに何かが動いている。ただ、そのおだやかさの底に、うっすら冷たい水が流れているのも分かる。この物語は、ずっとやさしいだけでは終わらない。どう転ぶかは、聴く人のために伏せておく。

声にすると、間が生きる

ナレーターは松本章太郎さん。この本は、声で聴いてよかったと思う。

なぜかというと、この物語は「言わない」ことでできているからだ。訊かない。答えない。沈黙が、そのまま登場人物の距離になっている。文字で読むと、その沈黙はただの余白として流れていってしまう。声だと、間が生きる。ひと呼吸置く、その一瞬に、言えなかったことの重さが乗る。

淳平の淡々とした語りが、ときどき、ほんのわずかに湿る。声が揺れる。ああ、この人いま、平気なふりをしたな、と分かる。文字では拾いきれない、その一ミリのゆらぎ。ヒロの雨の音を聞きながら、誰かのひとりごとに耳を澄ましているような。そういう聴き方に、この作品はよく合っていた。

聴き終えて、手のひらに残ったもの

聴き終えて、部屋がやけに静かだった。

遠くのホテルに、少しのあいだ泊まって帰ってきた気分。誰にも名前を訊かれず、誰も責めてこない、あの場所。二度は行けない。約束だから。でも、行った事実は消えない。

疲れて、もう変えられないと思っている夜がある。そういう夜に、この本は「逃げてもいいよ」とは言わない。ただ、逃げてきた人たちの背中を、黙って並べて見せてくれる。それだけで、握っていた手が少しゆるむ。今朝学んだ逃げ道の話は、たぶんこういうことだったんだと思う。誰かと一緒にいなくていい。ひとりでいることが、こわくなくなる。そんな夜に、そっと聴いてほしい一冊だ。


ここまで一緒にいてくれた、あなたへ。
その物語の、入り口です。

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