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今朝、「美しい」を疑っていた
今朝、書くことの勉強をしていた。感覚描写、というやつ。「美しい」「美味しい」「快適」——そういう便利な言葉を、五感の具体語に置き換える技法。色。光。手ざわり。においや音。抽象的な形容詞は、読む人の頭の中で止まってしまうらしい。でも「縁に光の線が一本」と書くと、脳がほんとうに見た時に近い回路で動くのだと。身体化された認知、というむずかしい名前もついていた。
なるほど、と思った。「美しい」は情報。でも「光の当たった縁」は、体験。伝えたいのは前者じゃない、いつも後者のほうだ。
そこまで考えて、ふと一冊が浮かんだ。感覚をこれ以上ないほど具体的に、それも死んだ人の身体を通して読み解いていく話。中山七里の『ヒポクラテスの誓い』。ああ、あれは「美しい」を一切使わない小説だったな、と。
望んで来たわけじゃない子の話
主人公は栂野真琴。浦和医大の研修医。彼女は法医学を、望んで選んだわけじゃない。単位が足りなくて、しかたなく法医学教室に流れ着いた。この「選んでない」というところが、私には最初やけに刺さった。
迎えたのは光崎藤次郎という老教授。無愛想で、頑固で、生きている人間にはあまり興味がなさそうな人。それと、キャシーという外国人の准教授。彼女はどうも、死体が好きらしい。この二人にはさまれて、真琴の毎日が始まる。
運ばれてくる遺体を前に、真琴はいちいち動揺する。でも光崎は動じない。皮膚の色。臓器の重さ。傷のふち。そういう一つひとつを、淡々と読んでいく。私はそこで、今朝の勉強を思い出してしまった。彼がやっているのは、まさに感覚描写の極北だ。曖昧な言葉を許さない。身体が語ることだけを、正確に、具体的に受け取っていく。
淡々と読み上げられる解剖の描写は、目で追うより耳で聴くほうがずっと近い。
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死んだ人のほうが、嘘をつかない
この小説の芯は、たぶんここにある。生きている人はいくらでも嘘をつく。ごまかす。忘れたふりをする。でも身体は、黙って本当のことだけを持っている。光崎はそれを読む人だ。
だから物語は、派手じゃない。声を荒げる場面も少ない。ただ、目の前の一体から「この人に何が起きたのか」を、一枚ずつめくるように明らかにしていく。誰も気づかなかった小さな異変。見過ごされそうになった一つの事実。それを拾い上げていく静けさが、この本の温度だと思う。
仕事で心がすり減った夜に、これはよく効いた。派手ななぐさめは何もない。ただ「ちゃんと見る人がいる」という事実が、なぜか、じんと残る。見落とされたものを、誰かが最後まで見てくれている。それだけで少し、救われる気がした。
淡々を、声で聴くということ
この本を、私はオーディブルで聴いた。石田嘉代さんの朗読。解剖の場面が、目で読むのと耳で聴くのとで、こんなに違うのかと驚いた。
文字だと、生々しい描写のところで、つい少し身構える。目が先回りしてしまう。でも声だと、光崎の淡々とした口調のまま、するりと入ってくる。感情をのせすぎない。むしろ引いている。その引き加減が、この物語の呼吸とぴったり合っている。
真琴が動揺する時の、ほんのわずかな声の揺れ。光崎が短く言い切る時の、間。文字にはない一拍が、耳にはある。専門用語がつづく場面も、聴いているとふしぎと置いていかれない。声が、手を引いてくれる感じがした。
聴き終えて、残ったもの
聴き終えて残ったのは、事件の答えじゃなかった。「ちゃんと見る」という一つの姿勢だった。
今朝勉強した感覚描写も、けっきょく同じことなんだと思う。「美しい」で済ませない。手ざわりまで、光の当たり方まで、ちゃんと見る。ちゃんと見た人だけが、本当のことを書ける。光崎が死者の身体を読むのと、書き手が世界を見るのは、どこかで地続きだ。
望んで選んだわけじゃない場所で、それでも真琴は少しずつ変わっていく。明日、ほんの少しだけ丁寧に何かを見てみようか——そんな気持ちにさせてくれる一冊だった。どんな真実が身体から立ちのぼってくるのかは、聴く人の楽しみにとっておきたい。