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一つの嫌なことは、良いことの2倍から5倍重い
今朝、ネガティビティ・バイアスというものを学んでいた。一つの悪い出来事は、良い出来事の2倍から5倍の重みで記憶に残る。だから悪いレビューを1件消すには、良いレビューが3件から5件要る。そういう話。仕事の口コミ対応の設計として学んだ。数字として、なるほどと思った。
でも、机から離れてしばらくして、変なところに引っかかった。それ、店の話だけじゃないな、と。人の記憶も同じ天秤なんだとしたら。親のこと、家族のこと、そのへんの記憶も、同じ比率で傾いているんじゃないか。
言われた嫌なことは、二十年経っても一語一句覚えている。優しくしてもらったことは、輪郭がぼやけている。私だけの欠陥かと思っていた。違った。人間はそう作られている。そう思った瞬間に、聴きかけていた本のことを思い出した。瀬尾まいこの「ありか」。
母になった人が、まだ娘だった
美空という人がいる。シングルマザーで、ひかりという一人娘を育てている。子どもを慈しんでいる。ちゃんと育てている。ここだけ切り取れば、しっかりした母親の話だ。
けれど美空には、自分の母親との関係に、まだ片付いていないものがある。娘を育てながら、自分が娘だったころの時間を、まだ引きずっている。それが本の底を流れている。母であることと、娘であることが、一人の中で同時に起きている。
この構造が、ずるい。だって聴いている私も、たいてい両方なのだ。誰かの子どもであり、誰かに何かを渡す側でもある。どちらか片方で済んでいる人なんて、あんまりいない。だから他人の話に聞こえない。ずっと、こっち側に刺さり続ける。
重い記憶に、軽い記憶を何度も足しにいく話
朝の学びに戻る。悪い記憶は重い。良い記憶は軽い。だから放っておけば、人の中の親の像は、嫌だったことで塗り固められる。それが人間の初期設定だ。
この本がやっているのは、たぶんその天秤に、軽い記憶を何度も何度も足しにいく作業だと思う。派手な和解じゃない。ドラマチックな告白でもない。ごはんの場面。ちょっとした会話。何でもない日の、何でもない一コマ。一つ一つは軽い。1グラムくらいしかない。
でも瀬尾まいこは、それを執拗に積む。積んで、積んで、積んで、気づいたら天秤が動いている。3件から5件で足りるなんて嘘だ、と思うくらい積む。読み終わったとき、あの重かったものが、まだそこにあるのに、前ほど傾いていない。消してはいない。消していないのに、軽くなっている。私はここでやられた。許すって、忘れることじゃないんだ。
「これまでの私の人生を全部込めたと言い切れる作品を描きました」。作者本人がそう言っている。全部込める、というのは、たぶんそういう地味な作業のことだ。
石川由依の声は、感情を先に置かない
ナレーターは石川由依。この人の読みは、感情を先に置かない。ここ泣くところですよ、という合図を出さない。淡々と、置いていく。
だから、こちらが勝手に引っかかる。何でもない台詞のはずのところで、こっちの喉が急に詰まる。誘導されていないぶん、逃げ場もない。文字で読むと、目が先に行を走って、感情が来る前に情報を処理してしまうことがある。声だと、それができない。読み手のペースで、一語ずつ渡される。
そして、間。母と娘の会話には、言葉と言葉のあいだに、言えなかったものが挟まっている。文字の上では、そこは空白か、句点一つだ。声だと、その空白に長さが生まれる。何を飲み込んだ沈黙なのかが、長さで分かる。この本は、その沈黙の分量がやたら多い。だから耳のほうが向いている。
聴き終わって、電話をかけはしなかった
聴き終わって、しばらく何もできなかった。感動して泣いた、みたいな綺麗なやつじゃない。もっと、じわっとした、行き場のないやつ。
誰かに電話をかけたくなる、と書けば話はきれいに収まる。でも私はかけなかった。かけられなかった。ただ、頭の中で天秤の話をずっとしていた。私が親に対して持っている重いほうの記憶。その反対側の皿が、実は空っぽじゃなかったんじゃないか、ということ。軽すぎて、数えていなかっただけなんじゃないか、ということ。
愛はここにある。幸せはここにいる。この本にはそういう言葉が添えられている。ここに、というのが肝だ。どこかに探しに行く話ではない。もうある場所の話。ありか、というタイトルの意味が、聴き終わったあとにようやく分かる。
どう繋がるかは、聴く人の楽しみに取っておく。ただ一つ言えるのは、この本を聴いたあと、自分の中の重い記憶の扱い方が、ちょっとだけ変わるということ。消さなくていい。ただ、反対側を数え直せばいい。