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見られているだけで、手が変わる
今朝、社会的促進理論というものを学んでいた。1965年、ザイアンスという心理学者。誰かが見ている。ただ、そばにいる。それだけで、慣れた作業は速く、正確になる。
何もしていない人が、結果を変える。そこに引っかかった。手を貸したわけでもない。助言したわけでもない。いるだけ。なのに、変わる。
そういえば、と思った。いるだけの人が主人公の物語を、ついこのあいだ聴いていた。『となりのナースエイド』。タイトルからして、となり、だった。
点滴も、処置も、彼女の仕事ではない
桜庭澪は、新人のナースエイド。看護助手だ。大学病院の統合外科病棟に配属される。医療行為は許されていない。薬を出すことも、傷を縫うこともできない。
同じ病棟には、竜崎大河という天才外科医がいる。技術がすべて。腕で患者を救う人。澪とは、ぶつかる。それはそうだろう、と思う。立っている場所が、まるで違うのだから。
著者の知念実希人さんは、医師でもある。だからなのか、病棟の空気が妙に生々しい。廊下の足音まで聞こえてきそうだった。物語がどこへ転がっていくかは、ここでは書かない。聴く人の楽しみに、取っておきたい。
腕と、となり
手術は、竜崎の仕事だ。病を治すのは、腕。それは本当。この本は、そこを軽んじない。技術を持つ人の傲慢さも、その技術に救われる命も、両方ちゃんと描く。
でも、治される側の人間は、手術台の上にいるあいだだけ生きているわけじゃない。その前の夜がある。その後の朝がある。怖い。眠れない。家族にも言えない。
澪は、そこにいる。処置はできない。薬も出せない。それでも、そこにいる。話を聞く。顔を見る。いなくならない。今朝の理論が、急に体温を持った。いるだけで、人は変わる。いるだけで、震えがおさまる夜がある。いるだけで、明日の手術室まで歩いていける朝がある。その「だけ」を、この物語は、だけ、と呼ばせてくれない。
声にすると、沈黙が病室になる
ナレーターは木ノ瀬ちひろさん。澪の声は、前に出すぎない。半歩うしろに立っているような声だった。
患者に向ける声と、竜崎に向ける声。同じ人なのに、温度がちがう。文字で読むと、たぶん気づかずに通り過ぎる差だ。耳だと、はっきりわかる。
それから、間。紙の上なら読み飛ばす、ほんの一拍の沈黙。声で聴くと、その一拍がそのまま病室の静けさになる。誰かが隣で黙っている時間。あれは、聴かないと来ない。
見張る目と、そばにいる目
理論には続きがあった。見られていると、新しいことや難しいことは、かえって下手になる。人の目は、支えにもなるし、重さにもなる。
だから、誰かがとなりにいればいい、という単純な話ではないのだと思う。見張るのか。そばにいるのか。同じ場所に立っていても、そこが分かれる。澪は、後者であろうとしていた。少なくとも、私にはそう聴こえた。
治せなくても、できることがある。聴き終えて、自分の手を見た。今日、誰かのとなりにいられただろうか。見張るほうの目になっていなかっただろうか。明日は、少しだけ。半歩うしろで、黙っていられたらいい。