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共感疲弊、という言葉を覚えた朝に
今朝、共感疲弊という言葉を学んでいた。コンパッション・ファティーグ。他人の苦しみに寄り添いすぎて、寄り添った当人のほうが先に壊れていく状態のこと。燃え尽きとは別物なのだと知った。燃え尽きは環境のせい。共感疲弊は、感じすぎるせい。優しい人ほどなる。早いサインは、感情の麻痺と、回避と、怒りっぽさ。
なるほど、と思いながら、ひとつ引っかかった。じゃあ、毎日それを浴びている人たちは、どうやって立っているんだろう。看護師。介護の人。地域のお医者さん。苦しみのいちばん近くに、仕事として立ち続ける人たち。
そこで、この本を思い出した。『勿忘草の咲く町で』。安曇野の小さな病院で働く、看護師三年目の話だ。
梓川病院の、ふつうの日々
主人公は美琴。松本の郊外、梓川病院に勤めて三年目。まだ慣れない。けど、もう新人ではいられない。風変わりな研修医の桂と組んで、年老いた患者さんたちと向き合っていく。派手な事件は起きない。地域医療の、ふつうの毎日が積み重なっていく。
でも、その「ふつう」が、ぜんぜんふつうじゃない。口から物が食べられなくなったら、それは寿命なのか。それとも、まだ手はあるのか。胃瘻という選択肢が出てくる。お腹に穴をあけて、直接栄養を入れる。それで、生きられる。生きられるけれど――それは、生きている、ということなんだろうか。
「できることは全部やってほしい」。家族はそう言う。当たり前の願いだ。私だって、たぶん言う。でも、その「全部」が、ベッドの上の本人にとって何を意味するのか。美琴は悩む。桂も、悩む。答えは出ない。出ないまま、明日も患者さんは待っている。ここから先、どう転んでいくのかは、聴く人のために伏せておく。
生きていることと、死んでいないこと
この本の芯は、たぶん、ひとつの問いだ。生きていることと、死んでいないことの差は、どこにあるのか。
重い。重いんだけど、説教くさくない。それがすごい。著者は現役のお医者さんで、答えを押しつけてこない。ただ、現場にいる人間がほんとうに抱えている迷いを、迷いのまま置いていく。美琴は泣くし、迷うし、それでも翌朝には白衣を着る。
朝に覚えた言葉が、ここで効いてくる。共感疲弊の予防の鍵は、情動的共感から認知的共感へのギアチェンジなんだという。感じきってしまわず、一歩引いて考える。美琴がやろうとしているのが、まさにそれだった。感じる心を殺さないまま、潰されないために少しだけ距離をとる。その綱渡りが、この本の読みどころのひとつだと思う。
声だから、間がそのまま残る
ナレーターは木ノ瀬ちひろさん。
この本は、声で聴くのが合っている。なぜなら、答えの出ない問いには、間が要るから。患者さんの家族が言葉を選ぶ、あの一拍。美琴が返事をのみこむ、あの沈黙。文字だと読み飛ばしてしまう余白が、声だと、そのまま時間として流れていく。聴き手も、一緒に黙ることになる。
舞台は安曇野。仕事で擦り減った日には、誰かを支える人のしんどさを描いた物語を、声に預けて聴くという選び方がある。
この本が残す問い
この本は、答えをくれない。生と死の境目は、結局わからないままだ。でも、わからないままでいい、と思わせてくれる本だと思う。
そして、もうひとつ。優しさで壊れそうな人は、あの病院にもいた。私のまわりにも、たぶんいる。感じすぎて、立てなくなりそうな人。その人に、無理に元気を出せとは言えない。ただ、一歩引いて考えていいんだよ、とは言えるようになった。今朝学んだ言葉のおかげで。
本一冊と、ひとつの言葉。その二つが、夜のなかで静かに重なった。明日、誰かに少しだけやさしくできる気がする。たぶん、それで十分なんだと思う。