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今朝、「今」だけが脳をおかしくする話を読んでいた
双曲割引、という言葉を今日学んだ。ざっくり言うと、人間の脳は「今」が絡む選択のときだけ、不釣り合いな重みをかけて判断を歪める。一年後の一万円と一年と一日後の一万円なら誰でも冷静に比べられるのに、今日の一万円と明日の一万円になった途端、今日が勝つ。同じ一日の差なのに。
面白かったのは、そのバイアスが「支払い」より「手続き」に強く出るという話だった。お金を払う痛みより、面倒な作業を先延ばしにする力のほうが強い。つまり人は、高いから買わないんじゃなくて、面倒だからやらない。
読みながら、ずっと引っかかっていた。それ、家計簿じゃないか。世の中で一番「面倒だから明日でいいや」と言われ続けている手続き。そう思った瞬間に、積んだままだった一冊を思い出した。
残高、四二八円
藤本あすみ、二十八歳。正社員だった。飲食店の社長を名乗る恋人に「結婚したら専業主婦になっていいよ、僕の収入は好きに使って」と言われて、会社を辞めた。寿退社。おめでとうと言われて、送別会もして、辞めた。
そして恋人は消えた。残ったのは、二人で贅沢した分のカードの請求だけ。通帳を開いたら、四二八円。
ここまでで、たぶん多くの人が「いや、それは……」と思う。私も思った。思ってしまった自分が、ちょっと嫌だった。だってこの人、悪いことは何一つしていない。信じただけだ。信じることに、罰があるみたいな話になっている。
説教するのは親友で、責めるのは本人だけ
この本のうまいところは、あすみを責める役を「親友の仁子」ひとりに絞ったことだと思う。仁子はちゃんと説教する。容赦なく。でもそれは、突き放すためじゃない。家計簿をつけろ、と言うために説教する。
家計簿。ここで出てくるのが家計簿なのが、いい。慰めでも、再就職の紹介でも、新しい恋でもなく、ノートに数字を書く作業。今日いくら使ったかを、書く。それだけ。
朝に読んだ話に戻る。人が先延ばしにするのは、痛みじゃなくて手続きだった。だとしたら、立ち直りの第一歩に「手続き」を置くのは、実は一番きつい選択でもある。あすみは毎回、書くのを面倒くさがる。忘れる。ごまかす。その、ごまかす描写が、本当に丁寧なのだ。読んでいて、自分の家計簿アプリの通知を三週間無視していることを思い出した。
数字を読み上げる声には、体温がある
本多真梨子さんの声で聴いた。この作品を耳で聴く価値は、ここに全部あると言ってもいい。
紙で読むと、家計簿の数字は数字のまま目を滑っていく。三八〇円、一二〇〇円、六五〇〇円。でも声で読み上げられると、数字に体温がつく。三八〇円と読む声が、少しだけ軽い。六五〇〇円と読む声が、ほんの少しだけ沈む。台本には書いていないはずの温度差が、そこにある。ああ、この人はこの出費を後悔しているんだな、とわかる。
そして一番効いたのは、金額を読んだあとの、ほんの短い間だった。書いてしまった、という間。数字を紙に書くというのは、自分がやったことを認める行為でもある。認めるには、一拍いる。その一拍が、耳にははっきり聞こえる。目では絶対に見えないものだ。
節約の本ではなかった
聴き終えて、これは節約の本じゃないな、と思った。いくら貯めたかの話ではない。自分の生活を、自分の目で見られるようになるまでの話だ。
騙された人は、しばらく自分の判断を信じられなくなる。あの時の自分は何を見ていたんだろう、と。そこから戻ってくる方法として、「毎日、事実だけを書く」というのは、たぶん理屈として正しい。判断を挟まない。良し悪しを言わない。ただ、使った額を書く。事実を積み上げていくうちに、自分の目盛りが戻ってくる。
重い話にはならない。むしろ軽い。あすみはよく食べるし、よく怒るし、しょっちゅう挫ける。そこがいい。深刻な顔で人生をやり直すのではなく、今日のお昼は何にしようと考えながら、やり直していく。
明日ちょっとだけ頑張ろうかな、くらいの気持ちで眠りたい夜に、ちょうどいい一冊だった。私は聴きながら、三週間無視していた家計簿アプリを開いた。開いただけで、まだ何も入力していない。でも、開いた。今日はそれでいいことにする。