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桜を広角で撮ると、なぜか心に残らない
今日、庭園写真の構図を勉強していた。京都の旅館やホテルが春に出す、あの桜の写真。
いちばん多いのは、満開の桜を広角で、どーんと全部入れる撮り方だそうだ。全部入っている。豪華だ。なのに、記憶に残らない。理由は身も蓋もなくて、「どこを見ればいいか分からない」から。効いている写真は逆で、望遠で一輪に寄って背景を溶かすか、逆光で花びらを透かすか、池の水面に映った桜と地上の桜を望遠で重ねるか。要は、何かを捨てて、主題を一個に決めている。
これを読んでいて、ふと止まった。これ、写真の話じゃないな、と思った。自分が仕事で書く文章も、企画も、たぶん「全部入りの広角」になっている。全部言おうとして、何も言っていない。そこで思い出したのが、少し前に聴いたこの本だった。
一つ上から、自分を見る
細谷功さんの『メタ思考トレーニング』。メタ思考というのは、物事を一つ上の視点から考えること。自分自身を幽体離脱して、上から眺めるようなこと。言葉にすると簡単だけど、やれと言われるとできない。
この本がうまいのは、「メタ思考とは何か」を長々と説明しないところだ。説明の代わりに、問題を出してくる。三十四問。たとえば、Why型思考——なぜそれをやるのか、を上へ上へと遡っていく問い。たとえば、アナロジー思考——一見まったく関係ないもの同士の、構造だけを取り出して重ねる問い。
私は聴きながら、何度も止めた。止めて、考えた。答えが出ないまま次に進んだものもある。それでいいらしい。この本、答えを覚える本ではなくて、頭の使い方の筋肉を動かす本だから。
自分の答えが、いちばん恥ずかしい
正直に書く。最初のほうの問題で、私はかなり自信満々に答えを思いついた。で、著者の解説を聴いて、ぐうの音も出なかった。
私が出した答えは、問題の枠の中にきれいに収まっていた。著者は、枠そのものを一段上から見ていた。同じ問題を見ていたはずなのに、立っている高さが違った。
これ、桜の話と同じだ。私は広角で全部入れていた。ちゃんと全部入っていた。でも、主題がなかった。一段上から見るというのは、視野を広げることじゃなくて、どこを捨てるかを決められる場所に立つ、ということなんだと思う。
考えさせる本を、声で聴くということ
問題集みたいな本を耳で聴くのは、向いていないんじゃないか。最初はそう思っていた。図もあるし、書き込みたくなるし。
でも、聴いてみて分かった。この本は、耳のほうが向いている。理由は単純で、目で読むと、目が勝手に先に行くからだ。問題文の下に解説があると、考える前に視界に入ってしまう。ずるができてしまう。
耳では、ずるができない。ナレーターの國分和人さんが問題を読み上げ終わる。そして、少しの間がある。その間、私は本当に考えるしかない。歩きながら、皿を洗いながら、頭の中で。声のスピードは自分で速められないから、私のほうが本に合わせるしかない。その「合わせさせられる」感じが、この本ではむしろ効く。考えるための時間を、本のほうが強制的に確保してくれる。
答えは残らなかった。癖が残った
聴き終えて、三十四問の答えはほとんど覚えていない。覚えていないというか、覚えるようにできていない。
残ったのは、癖のほうだ。何か言われたときに、「で、そもそもこれ何のためだっけ」と一回上へ上がる癖。あと、目の前のものを見て、「これって、あれと同じ形をしてないか」と横に飛ぶ癖。今日の桜の話がまさにそれで、構図の勉強をしていたはずなのに、勝手に自分の文章の話になった。たぶんこの本のせいだ。
頭がいい人になれる本、ではないと思う。ただ、自分が今どこに立って物を見ているかを、時々思い出させてくれる本。疲れて、目の前のことしか見えなくなっている夜に、ふっと視点を一段だけ持ち上げてくれる。全部を広角で抱え込んで動けなくなっている人にこそ、効く。捨てていいんだ、と分かるから。