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今朝、思い込みが作られる瞬間の話を読んでいた
錯誤相関、という言葉を学んでいた。人は、珍しいことと目立つことの組み合わせを、実際よりずっと多かったように覚えてしまう。そこに因果まで見てしまう。1967年に指摘された話だという。
読みながら、少し嫌な気持ちになった。この癖のいちばん厄介なところは、本人が気づけない点にある。「ちゃんと見て判断した」というその確信ごと、歪む。歪んだ側から自分の歪みは見えない。
自分が何回これをやってきたかは、数えないことにした。かわりに思い出したことがある。人の思い込みを、正面から、でもやさしくほどいていく物語を、少し前に聴いていた。川澄浩平の「探偵は教室にいない」。
学校に来ない幼馴染のところへ、謎を持っていく
語り手は海砂真史。中学二年生。舞台は札幌。彼女には、幼稚園のころから妙に大人びていた幼馴染がいる。鳥飼歩。今は学校に行っていない。別々の小学校に進んでから、長いこと会っていなかった。
ある日、真史のところに小さな事件が来る。差出人のわからない手紙。誰が、なんのために。答えの出ないまま、彼女は歩の家を訪ねる。それが始まり。以降、彼女が持ち込み、彼がほどく。そういう形で連作が進んでいく。
殺人は起きない。血も出ない。起きるのは、教室のなかで起きる程度の、ごく小さなずれ。でもそのずれは、真史にとってはちゃんと痛い。ここを軽く扱わない書き方が、いい。
犯人を当てるのではなく、決めつけをほどく
聴きながら気づいたことがある。歩がやっているのは、犯人を指さすことではない。真史が持ってきた「たぶん、こういうことだと思う」を、いったん全部外させることだ。
真史は素直だから、見たことをそのまま話す。でもその「そのまま」には、もう解釈が混ざっている。誰が怪しいか。誰がいい人か。あの子はいつもああだから。歩はそこを、一つずつ、静かに剥がしていく。責めない。バカにもしない。ただ、確かめる。
これが、今朝の学びと重なった。錯誤相関の対策は、結局ひとつしかないらしい。本当に頻度が高いのか、それとも目立つから覚えているだけなのか、数えて確かめること。歩がやっているのは、まさにそれだ。中学生の話のなかで、それが行われている。それが、なんだかうれしかった。
地の文が、迷ったままで届く
ナレーターは土師亜文。真史の一人称を、中学生の速度で読む。
文字で読んでいたら、たぶん通り過ぎていた場所がある。真史が言いかけて、やめるところ。自分の考えが自分でも整理できていないまま口に出すところ。声だと、そこに揺れが残る。言い切れていない語尾が、言い切れていないまま届く。
そして歩の返し方。彼の言葉は短い。冷たく響いてもおかしくない。でも声で聴くと、そうならない。間の置き方が、突き放していない。相手の言葉が終わるのを待ってから話し始める人の間だ。これは活字では見えなかったと思う。声にしてもらって、初めて気づいた種類のやさしさだった。
聴き終わって残ったのは、確かめる癖のほうだった
謎の答えは、聴き終われば忘れていく。それでいい。残ったのは別のものだった。真史が、自分の見方を疑えるようになっていく感じ。ゆっくりで、行ったり来たりで、劇的ではない。でも確かに動いている。
二人が最終的にどういう距離になるのかは、書かない。そこが、この本のいちばん静かな見どころだから。聴く人のものにしておきたい。
今朝、思い込みは自覚できないと学んだ。だから対策は、意志ではなく癖のほうに置くしかない。目立つから覚えているだけかもしれない、と一回止まる癖。難しい。でも、中学生がやれているのを聴いたあとだと、少しだけできる気がしてくる。今日はそれで十分だと思うことにした。