護られなかった者たちへ

MIMIBUNKO

「護られなかった者たちへ」オーディブル版 ― 自分は線の内側にいる、と思っていた

2026.08.19

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今朝、ラベルの話を読んでいた

社会的アイデンティティ理論というものを学んでいた。1979年、タジフェルとターナー。ざっくり言うと、人は自分が属している集団を「こちら側」と感じて、そこにひいきをする、という話。

驚いたのは実験のほうだった。最小条件集団パラダイムというやつで、まったく意味のない基準で人を二つに分ける。くじでもいい。それだけで、人は自分の組の側に多く分配する。中身のない線でも、線が引かれた瞬間に「こちら側」が生まれてしまう。

そして、そこにひとつ副作用が書いてあった。内側をひいきするということは、同時に外側の評価が下がるということ。上げているつもりで、実は下げている。比較でしか自分の組を高められないから。読みながら、ふうん、と思った。仕事に使える話だな、くらいで。夜、この本のことを思い出すまでは。

餓死体から、話が始まる

中山七里の「護られなかった者たちへ」。仙台。ある男が、縛られたまま放置されて死んでいる。殴られてもいない、刺されてもいない。ただ、食べていない。餓死。

殺された男は、悪人ではなかった。周りに聞けば聞くほど、いい人だったという話しか出てこない。真面目で、面倒見がよくて、恨まれる理由が見つからない。刑事たちは行き止まりに立つ。誰が、なぜ、こんな殺し方を選んだのか。

捜査は、被害者たちが仕事で触れていた場所へ向かっていく。福祉。窓口。申請の書類。ページが進むごとに、事件の輪郭より先に、その窓口の景色のほうが濃くなっていく。私は途中から、犯人を追いかけるのをやめていた。追いかけるのは、たぶんこの物語の主目的ではない。

この物語を、耳から受け取ってみてほしい。
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窓口には、線が引いてある

窓口というのは、線だ。こちら側と、あちら側。受け付ける側と、頭を下げる側。制度は正しく運用されるほど、線をきれいに引く。要件を満たす人と、満たさない人。それは公平のための線で、必要な線でもある。

でも今朝の話が、ここでよみがえってしまった。線が引かれると、内側は自分たちを守り、外側の評価は静かに下がる。意味のないくじでもそうなるのだから、生活がかかった線ならなおさらだろう。窓口に立つ人が悪人である必要はまったくない。誰も悪くないまま、線の向こうの人が、少しずつ小さく見えていく。それだけで足りてしまう。

そして私は、自分が内側にいると思っていた。ずっと思っていた。書類を出す側ではなく、受け取る側の人生を歩いていると、根拠もなく信じていた。この本はそこを突いてくる。あなたは内側にいるのではない、まだ外側に落ちていないだけだ、と。声を荒げずに、そう言ってくる。落ちるきっかけは、病気だったり、親の介護だったり、勤め先の都合だったり、ほんの数か月のことだったりする。自分の努力と関係のないところで線は動く。動いた瞬間、さっきまで自分がいた内側が、こちらを見なくなる。それが怖いのではなくて、自分がその内側の側で、これまで誰かをそう扱ってこなかったと言い切れないことが怖い。

山口恵さんが、淡々としていること

朗読は山口恵さん。この作品にとって、この淡々さは、たぶん正解だ。

泣かせにこない。声を震わせない。ひどい場面ほど、ふつうの温度で読み上げる。だから聴いている私のほうに、感情の置き場が残る。もし語り手が先に泣いてしまったら、私は安心して観客になれてしまう。そうならない。乾いた声で読まれた事実だけが、耳から入って、勝手にこちらで温度を持つ。

取り調べの場面と、回想の場面。声のトーンがほんの少しだけ変わる。ほんの少し。目で読んでいたら気づかないくらいの差だと思う。その差が、この人はいま昔を見ている、と教えてくれる。それから、名前の呼び方。誰が誰を、どういう距離で呼んでいるか。音になると、距離が一発でわかる。文字だと「さん」も「くん」も同じ大きさなのに。

聴き終わって、しばらく立てなかった

終わり方については書かない。どう繋がるかは、聴く人の楽しみだと思うから。ただ、犯人がわかることと、腑に落ちることは別だった、とだけ。

再生が止まって、イヤホンを外して、それでもしばらく座っていた。腹が立っているのでもない。悲しいのとも少し違う。強いて言うなら、自分の物差しが恥ずかしかった。今朝、あの理論を読んだとき、私は「メンバー限定と書くと満足度が上がる」という使い道のほうから読んでいた。使える型として読んでいた。人を内と外に分ける力を、便利な道具の側から見ていた。

この本は、その同じ力の反対側にあるものを見せてくる。同じ一本の線の、向こう側。学んだことに悪気はなかったし、間違ってもいないのだと思う。ただ、知識には裏面がある、というのを一冊まるごとかけて教わった感じがする。

明日、たぶん私はまた仕組みの話をする。数字の話もする。それでいい。ただ、線を引くときに一度だけ止まって、向こう側に誰がいるかを見る。この本が私に残していったのは、それくらいの小さいものだ。小さいけれど、消えない。


ここまで読んでくれた、あなたへ。
その物語の、入り口です。

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