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「知識の呪い」を学んだ日に、この本を思い出した
昨日、知識の呪いというものを学んでいた。知っている人は、知らない人がどこで迷子になるかを想像できない。そういう話。訓練が足りないのではなくて、構造としてそうなる、と書いてあった。だから対策は「知らないふりをする」ことではない。実際に知らない人に読ませて、反応を見るしかない。
なるほど、と思った。思ったあとで、少し嫌な気持ちになった。自分が誰かに何かを説明してきた場面が、いくつか浮かんだから。あれは伝わっていなかったんじゃないか。相手はうなずいていたけど、うなずきと理解は別ものだ。
そのまま考えていて、ふと、この本のことを思い出した。「スピノザの診察室」。医者が出てくる話だ。医者ほど、知識の呪いの真ん中に立っている職業もない。知っている側と、知らない側。しかも知らない側は、自分の命の話を聞かされている。
京都の町医者と、そこへ来る人たち
主人公は、雄町哲郎。みんなから「マチ先生」と呼ばれている。京都の原田病院という、そんなに大きくない病院で働いている内科医。
この人には過去がある。かつては大学病院で、消化器内科のかなり前のほうにいた。それを辞めて、いまは町の病院にいる。理由はある。でもそこは、ここでは書かない。
そこへ、いろんな人が来る。治る人ばかりではない。というより、この本に出てくるのは、治らないほうの人が多い。マチ先生は、その人たちの最後のところに立ち会う。派手なことはしない。手術で劇的にどうこう、という話でもない。ただ、行って、座って、話をする。往診の場面が多いのも、そういうことなんだと思う。
あと、姪っ子がいる。中学生の女の子で、マチ先生と一緒に暮らしている。この子がいることで、話がぜんぶ湿っぽくならずに済んでいる。ごはんの場面がいい。京都のものを食べる。読んで(聴いて)いると、腹が減る。
この人は、説明していない
聴きながら、あ、と思ったところがあった。
マチ先生は、うまく説明していない。医学的にすごく分かりやすく噛み砕く、みたいなことを、そんなにしていない。もちろん必要なことは言う。でも、彼が一番していることは、説明じゃない。
隣にいる。それだけだ。
知識の呪いは、たぶん永久に外れない。どれだけ工夫しても、知っている側は知らない側になれない。だとしたら、説明の精度を上げ続けるのは、どこかで頭打ちになる。マチ先生がやっていることは、その先の話に見えた。分からせるのではなく、分からないまま不安な人の横に、黙って座る。それは技術ではないから、呪いにかからない。
タイトルにスピノザの名前が入っているのも、ここに効いてくる。スピノザは「明日、世界が終わるとしても、私はリンゴの木を植える」の人として引かれることが多いけれど、この物語で響いてくるのはもう少し静かなほうだ。世界のことは変えられない。変えられないものを、変えられないまま理解する。その上で、今日できることをする。マチ先生の毎日が、まさにそれだった。
声で聴くと、間が残る
ナレーターは吉野貴大さん。
この本を声で聴いてよかったと思ったのは、間だ。マチ先生は、よくしゃべる人ではない。文字で読むと、その沈黙は行間として通り過ぎてしまう。目は速いから。
声だと、そうはいかない。黙っている時間が、そのまま時間として流れる。患者さんが何か言って、マチ先生がすぐには返さない。その数秒が、耳では逃げられない。逃げられないから、こちらも一緒に黙ることになる。この本にとって、あの沈黙は空白じゃなくて中身だった。読んでいたら、たぶん飛ばしていた。
吉野さんは、感情を盛らない。泣かせにこない。淡々と読む。だからこそ、たまに声がわずかに沈むところがあって、そこで急にくる。抑えている人が一瞬だけ抑えきれない、あの感じ。あれは声じゃないと出ない。
京都の言葉の柔らかさも、耳で聴くとちゃんと柔らかい。
聴き終わって、残ったもの
泣くには泣いた。でも、この本で残るのは涙じゃなかった。
残ったのは、自分の明日のことだった。仕事で誰かに何かを伝える日は、これからもある。うまく説明できずに、噛み合わないまま終わる日もあるだろう。そういう時に、説明が下手だった、と自分を責めるのは、たぶん少しズレている。呪いは構造で、自分の能力の話じゃない。
できることは、隣にいるかどうかだけだ。相手が分かっていないかもしれない、という前提で、もう一度そこに座り直せるかどうか。
そんなに大きなことは起きない小説だ。誰かが劇的に助かるわけでもない。それでも聴き終えたあと、明日ちょっとだけ、まともにやってみるか、という気持ちになった。派手な感動じゃなくて、体温くらいの何か。夜に聴くのに、ちょうどよかった。