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今朝、脳は予測してから見ていると知った
今朝、予測的処理という考え方を学んでいた。カール・フリストンという人の理論で、脳は情報を受け取ってから理解しているのではなく、先に予測を立てて、あとから答え合わせをしているらしい。つまり、見てから分かるんじゃない。分かったつもりで見ている。
けっこう、こたえた。今まで別々に覚えてきた思い込みの話――思い込みで人を判断するとか、最初の印象に引きずられるとか――が、ぜんぶ同じ一本の仕組みの枝分かれだった、ということになる。まとめて足元をすくわれた感じ。
そのまま一日ぼんやりしていて、ふと思った。じゃあ、時間はどうなんだろう。時間が流れている、というあの感覚。あれも、私が先に立てた予測なんじゃないのか。棚に置いたままだった一冊を、その足で再生した。松浦壮さんの「時間とはなんだろう」。
誰にでも同じように流れて、逆回しにできないもの
私が思っていた時間は、たぶん三つくらいの性質でできていた。誰にでも同じ速さで流れる。過去から未来へ一方通行。そして、逆回しにはできない。それを疑ったことはなかった。疑う対象だと思っていなかった。
本は、その三つを一枚ずつはがしていく。まず、同じ速さで流れる、が崩れる。速く動く人と止まっている人では、時間の進み方がちがう。これは思考実験ではなく、実際に測られている。理屈は追えるのに、腹に落ちない。頭では分かった、と言いながら、体が納得していないのが自分でも分かる。
そのあと、逆回しにできない、の話が来る。ここが一番おもしろかった。物理の基本的な法則は、じつは過去と未来を区別していないらしい。区別していないのに、コップは割れるほうにしか進まない。じゃあ、あの一方通行はどこから来たのか。どう説明がつくのかは、聴く人の楽しみに取っておきたい。
わからないまま、聴いていられた
正直に言う。全部は分からなかった。分かった気になった箇所が、次の章でひっくり返される。何度も。
でも、いやじゃなかった。この本は、分からせにこない。分からせにこないのに、置いていかれない。ずっと、いま自分がどこを歩いているかを言い直してくれる。ここまでは日常の感覚。ここからは違う。この言葉は、さっきの意味とはずらして使っている。そういう手すりが、ずっとある。だから途中で手を離さずに済んだ。
そして途中で、私が本当に知りたかったのはこれだったのか、と気づいた。時間が流れているんじゃない。私が変わっているだけなんじゃないか。世界の側に川があるんじゃなくて、変わっていく私が、それを流れと呼んでいるだけなんじゃないか。朝に学んだ予測の話と、ここで完全に手がつながった。脳が予測して見ているのなら、流れという感覚も、私が世界に貼ったラベルのほうかもしれない。合っているかは分からない。分からないけれど、その考えが浮かんだ瞬間、部屋の空気が少しだけ薄くなった気がした。
大隈健太さんの声は、急がない
ナレーターは大隈健太さん。この本にとって、これは大きい。
科学の本を声で聴くのは、正直こわい。数式や単位が出た瞬間に置いていかれるから。でもこの朗読は、急がない。難しい語のあとに、ちゃんと間がある。0.5秒くらいの、何もない時間。あそこで私は追いつく。紙だと、読み返すことでしか作れない余白が、声だと最初から挟まっている。
それに、言い切るところと、ためらうところの温度がちがう。ここは分かっている、ここはまだ人類が分かっていない、というのが声の置き方で伝わってくる。読み手が謙虚だと、書き手の謙虚さも一緒に届く。時間という一番でかい相手に向かっているのに、上から説明されている感じがまったくしない。となりで、一緒に困ってくれている。
聴き終わってから、しばらく時計を見なかった
聴き終えて、部屋で座っていた。何分そうしていたかは分からない。時計を見る気にならなかった。
何かが解決したわけではない。時間が何なのか、私はいまも言えない。ただ、当たり前だと思っていたものが一枚めくれて、その下がまだ全然埋まっていない、という感覚だけが残った。空白なのに、不安ではないやつ。
たぶん、これは眠れない夜に向いている本だ。眠れないとき、時間は敵になる。あと何時間しかない、と数えるから。でもこの本を聴いたあとは、その数えている時間の正体が、思っていたよりずっとあやふやだと分かる。あやふやなものには、そこまで追い詰められなくていい。
今日学んだことと、今日聴いた本が、こんなふうに一本になる日がある。予定していたわけじゃない。朝の私は、夜にこの本を開くとは思っていなかった。そういうのがあるから、学ぶのも聴くのも、やめられない。