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今朝、「とても新鮮」は嘘になると習った
今朝、文章の勉強をしていた。具体性の原則、というやつ。「とても新鮮」と書くと読者は疑う。「朝6時に届いた地元漁港の魚」と書くと疑わない。理由は単純で、具体そのものが証拠だから。「圧倒的」とか「唯一無二」とか、そういう言葉には証拠がない。だから空回りする。
曖昧な形容詞を、検証可能な数字と固有名詞に置き換える。それだけの話だ。それだけの話なんだけど、朝からずっと頭に残っていた。
そういえば、この本は。ほとんど形容詞を使わずに、一人の人生を立ち上げてしまった本だった。
数行の死亡記事から、二人は歩き出す
はじまりは、新聞に載る「行旅死亡人」の公告。身元のわからない死者について、たった数行だけが載る欄。名前も、経歴も、家族も、何もわからない。ただ、亡くなったという事実だけがそこにある。
共同通信の記者が二人。その数行に引っかかった。引っかかった理由は、たぶん本人たちにもうまく説明できない。ただ、残されていた現金の額と、部屋にあったいくつかの物。その具体が、二人を動かした。
そこから先は、地道な作業だ。役所に行く。記録を当たる。番号を照会する。手紙を出す。返事を待つ。派手な推理はひとつもない。書かれているのは、どこに行って、何を見て、誰が何と言ったか。それだけ。
「かわいそう」と一度も書かない本
この本の芯は、そこにあると思っている。二人の記者は、彼女を「孤独だった」とも「気の毒だった」とも書かない。書かないまま、事実だけを積む。部屋にあった物。金額。書類の記述。証言の断片。
積んでいるうちに、輪郭が出てくる。読んでいる私の側に、勝手に感情が発生する。誰かに「かわいそうでしょう」と言われたわけじゃないから、抵抗のしようがない。じわっと来る。ずるい。
今朝習ったことと、同じだった。「明るい」と言われれば人は基準を疑う。「33%明るい」と言われれば、そのまま受け取ってしまう。この本は、その原理で一人の人生を私の中に立ち上げてくる。形容詞を捨てた文章は、こんなに強い。
声にすると、行き止まりの時間が見える
耳で聴くと、この本の「進まなさ」がよくわかる。目で読むと、行き詰まりの段落は速く読み飛ばせてしまう。でも音は飛ばせない。調べても出てこない。当たっても外れる。その時間が、そのまま時間として流れる。
ナレーションの新倉健太さんは、感情を足さない。淡々と読む。ここが良かった。もし切ない声で読まれたら、たぶん私は身構えていた。「感動させにきてるな」と思って、心を閉じていた。
淡々と読まれるから、こっちが勝手に手を伸ばす。あ、と思う瞬間が何度かあった。声が何も教えてくれないぶん、自分で気づいてしまう。それはもう、自分の感情だから、逃げられない。
聴き終えて、名前のことを考えていた
聴き終えて、しばらく動かなかった。何がどうなったかは書かない。どこに着くのかは、聴く人のものだ。
残ったのは、名前ってなんだろう、という感じ。私の名前も、いつか数行になる。そのとき誰も引っかからなければ、それで終わる。それは怖いというより、ただ、そうなんだな、という感じだった。
だから逆に、この二人がすごい。数行に引っかかって、そこから何年もかけて歩いた。理屈じゃない。ただ気になったから調べた。人が人を知ろうとするのに、それ以上の理由って、いるだろうか。この本のいちばん静かで、いちばん熱いところは、そこだと思う。