※本ページはアフィリエイト広告(PR)を含みます。
誰も助けなかった、という話が嘘だった
今朝、傍観者効果を調べていた。人が大勢いるほど、誰も助けない。あの有名な話。38人が見ていたのに、誰も動かなかった。ずっとそう習ってきた。
ところが2020年に、実際の監視カメラ219件を分析した研究が出ていて、9割以上のケースで誰かが助けに入っていた。しかも人が多いほど助かる確率は上がる。危険がはっきりしているときは、19倍動きやすい。逆だった。人は、案外、動く。動かないのは「これは緊急事態なのか?」が曖昧なときだけらしい。
つまり問題は、冷たさじゃない。見えているのに、意味がわからない。目の前で起きていることの正体が掴めない。その一瞬の宙づり。……そこまで考えて、ふと本棚のほうを見た。ああ、あの本だ、と思った。人が同じ場所にいて、同じものを見ていて、それでも誰ひとり同じものを見ていない話。「ヴィクトリアン・ホテル」。
一夜だけの、最後の客
百年続いた超高級ホテルが、明日、いったん幕を下ろす。その最後の一夜。集まってくるのは、女優。スリ。作家。宣伝マン。老夫婦。そしてベルマン。
章ごとに、視点が変わる。今はこの人の目で見ている。次はあの人の目で見ている。同じロビー、同じエレベーター、同じ廊下。なのに、見えているものが全然ちがう。ベルマンにとっての「いつものお客様」が、スリにとっては「今夜の獲物」で、作家にとっては「書きかけの登場人物」だったりする。
読みながら——聴きながら、何度も思った。この人、隣の人のこと、何もわかってないな。そして次の章で立場が入れ替わって、今度は自分がわかってなかったことに気づく。ずっとそれの繰り返し。誰も悪くない。ただ、視界が届いていないだけ。
見えていないのは、こっちだった
この本の芯は、そこだと思う。人は目の前の人を、思っているほど見ていない。
でもそれは冷たさじゃない。今朝の研究と同じで、意味がわからないだけなんだ。あの人がなぜ今ここにいるのか。なぜあんな顔をしたのか。文脈が一つ足りないだけで、人はまるごと別人に見える。逆に言えば、文脈が一つ足りただけで、憎かった相手が急に許せてしまうこともある。
そして、その勘違いは読んでいる自分にも降りかかってくる。私はさっき、この人物をこう決めつけたな、と何度も突きつけられる。うまい。とにかくうまい。どう繋がるかは、聴く人の楽しみに取っておきたい。ただ一つだけ言うなら、最後、自分がずっと立っていた場所ごと持っていかれる。
声だと、誰の目にいるのかが体に入ってくる
視点が切り替わる小説を耳で聴くのは、正直、難しいんじゃないかと思っていた。今どっちの話だっけ、と迷子になるんじゃないかと。
逆だった。ナレーターの浅井晴美さんが、章ごとに声の温度を変えてくる。女優の章はどこか演じている。スリの章はやたら目が速い。ベルマンの章は姿勢が正しい。声のトーン、間、息の置き方。それだけで「今この人の中にいる」とわかる。文字だと目で追って理解する切り替わりが、耳だと入ってきた瞬間に体でわかる。
そして間がいい。何か引っかかることが起きたとき、ほんの一拍、置く。その一拍で、こっちの背中がすっと伸びる。今の、なんだ? って。文字なら読み飛ばしていたかもしれない一行に、耳だと必ずつまずかせてくれる。あれは書き手が置いた仕掛けを、読み手が拾えるように渡してくれているんだと思う。
聴き終えて、人の顔を見た
聴き終わって、しばらく黙っていた。
残ったのは、犯人がどうとか仕掛けがどうとかじゃなかった。私が今日すれ違った人たちにも、たぶん全部、章があるんだよなという、当たり前のこと。無愛想だったあの人にも。急いでいたあの人にも。私が見ていたのは一段落分だけで、その前後は丸ごと知らない。
傍観者効果の話に戻る。人は、状況が曖昧だと固まる。でも、はっきり困っている人には自然と動く。だとしたら、私にできるのは、他人の事情を全部わかろうとすることじゃなくて、「わかっていない」と知っておくことなのかもしれない。決めつけを一段ゆるめておく。それだけで、動ける。
百年分の最後の一夜。それを聴いたあとの数日は、街を歩く目が少しだけ変わる。全員に、章がある。それだけのことが、妙に効いた。