崩れる脳を抱きしめて

MIMIBUNKO

「崩れる脳を抱きしめて」オーディブル版 ― 「これは脅威か、挑戦か」を学んだ日に、どちらでもない人の話を聴いた

2026.09.07

※本ページはアフィリエイト広告(PR)を含みます。

今朝、ストレスの分かれ道を勉強していた

認知的評価理論、というものを学んでいた。Lazarus と Folkman。ストレスは出来事そのものからは生まれない、という話。人はまず、目の前のことを「害」か「脅威」か「挑戦」かに振り分ける。次に「自分に対処できる資源があるか」を測る。その二段階で、しんどさの量が決まる。

つまり、同じ繁忙期でも、脅威と見た人は消耗して、挑戦と見た人は前を向く。だから声のかけ方を変えよう。応援を頼める状態にしておこう。そういう実務的な話として、私はメモを取っていた。役に立つ理屈だと思った。

でも、ノートを閉じてから、少し引っかかった。振り分けられない出来事はどうするんだろう。挑戦と呼ぶには残酷すぎて、害と呼んでしまうには、まだ生きている。そういうものの前に立たされた人は、どこに置けばいいんだろう。そこで、この本を思い出した。

実習に来た研修医が、ひとりの女性と出会う

広島から神奈川の病院へ、研修医の碓氷が実習にやってくる。ひと月ほどの期間。そこに入院しているのが、脳腫瘍を抱えたユカリという女性だ。

ユカリは、外の世界を怖がっている。病院の外へ出ようとしない。理由は最初、わからない。碓氷のほうも、まっすぐな青年というわけではなくて、自分の過去に足を取られている。二人とも、それぞれ別の重さを抱えて、たまたま同じ廊下に立っている。

そこから始まるのは、恋愛小説だ。著者自身が「僕にしか書けない恋愛小説」と言っている。ただし著者は現役の医師でもあって、だから病の描写に容赦がない。甘さと、逃げ場のなさが、同じページに同居している。この本のいちばん怖いところは、たぶんそこだと思う。

この人たちの声が耳の内側で鳴るのを、体験してほしい。
最初の30日は無料で試せます。

▶ 30日間無料で聴いてみる

Audible無料体験/30日以内に退会すれば費用は一切かかりません。

評価できない現実の前で、人は何をするか

朝に学んだ理屈へ、戻る。脅威か、挑戦か。ユカリの状況は、どちらでもない。挑戦と呼んだ瞬間に嘘になる。かといって、彼女は諦めていない。笑うし、怒るし、碓氷をからかいもする。

碓氷は医者の卵だから、本当は評価する側の人間だ。所見を取り、名前をつけ、対処法を選ぶ。それが訓練されてきた仕事のやり方。でも彼はユカリの前で、その道具が全部使えないことに気づいていく。名前をつけても、何も軽くならない。

じゃあ何をするのか。ただ、隣にいる。それだけ。理論でいうところの「資源」って、結局これなんじゃないかと思った。応援を頼める、裁量がある、という言い方をされていたけれど、いちばん原始的な資源は、そこに人がいることだ。碓氷はユカリの資源になろうとして、実は自分のほうが助けられている。この本が恋愛小説だというのは、そういう意味でもある。

川上晃二の声が、診察室の温度を作る

ナレーターは川上晃二。この人の声が、めちゃくちゃ効く。

医療の場面は、専門用語が出てくる。文字で読むと目が滑るところだ。それを声でやると、不思議なことに滑らない。医者が同僚に説明している、という現実の速度で耳に入ってくるから。読者が理解しているかどうかを気にしない喋り方。そこが逆に、本物っぽい。私は病院の廊下に立っている錯覚を、何度もした。

そして、ユカリの台詞。ここが本当にいい。声がわずかに笑いを含んでいるのに、その底に別のものが沈んでいる。文字だと「明るく言った」の一行で処理される感情が、声だと処理されない。明るさと絶望が同時に鳴っている。人間の声は一度に二つのことを言えるんだと、この本で知った。目で読んでいたら、たぶん私は気づかないまま通り過ぎていた。

間の使い方も丁寧だった。答えないところ。答えられないところ。文章では空白の行でしかないものが、耳では数秒の沈黙になる。その数秒、私は自分の呼吸の音を聞いていた。

聴き終えて、まだ残っているもの

終盤で物語は形を変える。どう変わるかは書かない。ただ、聴いている途中で「あ」と声が出た。イヤホンをしたまま、ひとりで。

聴き終えて、朝のノートをもう一度開いた。害・脅威・挑戦。三つの箱。この分類は間違っていない。人を助けるためのいい道具だ。でも私は、四つ目の箱があることを、この物語で教わった気がしている。分類しないまま、抱えたまま、それでも隣にいる、という置き方。タイトルの「抱きしめて」は、たぶんそういうことなんだと思う。壊れていくものを、直そうとするんじゃなくて、抱える。

眠る前に聴くには、正直、重い本だ。でも眠れない夜には、むしろ合う。誰かがどうしようもない状況の中で、それでも人を好きになっていく話を、声で聴いている。それだけで、自分の抱えているものの輪郭が、少しだけ柔らかくなる。明日また、私はいろんなことを学ぶ。学んだ理屈が届かない場所があると知っているほうが、たぶん、学びは深くなる。


ここまで読んでくれた、あなたへ。
その物語の、入り口です。

▶ まず30日、無料で聴いてみる

Audible無料体験/30日以内に退会すれば、費用は一切かかりません。




声に出会えた本は、ほかにもあります。

私の本棚を見る →

← 耳文庫トップへ