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今朝、ユングを読んでいて、ある医者を思い出した
今朝、ユングの本を読んでいた。「個性化」という言葉が出てきた。
人は四十をすぎたあたりで、それまで積み上げた型——肩書きとか、出世とか、ちゃんとやってきたはずのもの——が、急に窮屈になるらしい。ユングは、それを危機とは呼ばなかった。招待、と呼んだ。お前は今、ほんとうは何を取り戻したいんだ、と。
その一文で、ふっと、ひとりの医者の顔が浮かんだ。栗原一止。信州の、夜の病院の内科医。
……実を言うと、この本は、声で聴くより前から、知っている。ずっと前、文庫で読んだ。どこでだったかは、もう曖昧だ。でも、泣いたことだけは、はっきり覚えている。声を殺して、泣いた。
だから今度は、目を閉じて、耳で聴いた。また同じ場所に連れていかれるのを、知っていながら。
信州の夜を、ひとりの内科医が歩いている
栗原一止は、信州の小さな病院の内科医だ。二十四時間、三百六十五日。三日眠れないことも、ある。少し古風で、文学青年めいた言葉づかいをする男。夏目漱石が好きで、診察の合間に、難しい言い回しをぽろっとこぼす。
その一止のところに、招待状が届く。最先端の医療。大学病院。出世。誰がどう見ても、正解の道だ。
でも彼は、その手紙の前で、立ち止まったまま、動かない。
なぜか。
彼の病院には、もう治らない人がいるからだ。最新の医学では、どうにもできない人。それでも夜中に何度も呼ばれて、手を握りにいく相手がいる。治せないと、わかっていて。それでも、いく。
治せない夜に、それでも、そばにいる
医学は、その人を救えない。でも、医者は、まだ、そばにいられる。
この物語のいちばん深いところは、たぶん、そこだ。一止は、何でも治せる名医じゃない。むしろ、自分の無力を、いちばん知っている。治せないものは、治せない。神様じゃ、ないから。
それでも彼は、ベッドのそばに座る。手を握る。最期の時間を、ひとりにしない。治すことができないなら、せめて、いる。それが医者にできる、最後の仕事だと知っているから。
——医者は、神様にはなれない。治す力じゃ、足りない夜がある。それでも、いてくれる人がいる。人がほんとうにほしいのは、たぶん、それだ。
文庫で泣いたのは、ここだった。いま、声で聴いて、また同じところで、喉が詰まった。
声で聴くと、彼の不器用な言葉が、沁みる
一止の語り口は、少し堅い。少し時代がかっている。文字で読むと、最初は気取って見えるかもしれない。
でも、声になると、変わる。朗読の白川周作さんの声を通すと、その古風さが、彼の不器用なやさしさ、そのものに聞こえてくる。
とりわけ効くのは、間だ。一止が言葉を選びあぐねる、一瞬の沈黙。相手の言葉を受け止めてから、返すまでの呼吸。文字なら読み飛ばす、その空白を、声はちゃんと、時間として届けてくれる。その間に、私も一緒に黙って、考える。
活字で読んだ夜とは、別の沁み方だった。文庫のときは、自分のペースで泣けた。声のときは、一止の呼吸で、泣かされた。
聴き終えて——そして、スピノザのこと
聴き終えても、何かが解決したわけじゃない。明日もまた、誰かが治らない朝が来る。それでも、なぜか、もう少し続けてみてもいいか、と思えている。
栗原一止は、英雄じゃない。眠れず、迷い、それでも目の前の人のそばに立ち続ける、ひとりの働く人だ。だからこの物語は、「あなたも、それでいい」と言ってくれているように、聞こえる。
最後に、ひとつだけ。私は、この著者が好きだ。ずっとあとになって、この人に、スピノザという哲学者を教わることになる。「生きるとは何か」を。同じ頭のなかを、ぐるぐると繰り返してしまう夜から、私を連れ出してくれたのは、たぶん、ここから始まっていた。
でも、それは、また別の夜の話。