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胸のあたり、まで聞く
今朝、内受容感覚という言葉を知った。心拍とか、喉の奥とか、胸のあたりとか。体の内側の感覚をどれだけ細かく感じ取れているかが、感情を言葉にする力の土台になっている、という研究の話だった。「うれしい」で止めない。「胸のあたりが、じんわり温かい」まで聞く。そこまで聞いて、初めて言葉になる感情がある、らしい。
自分の感情なのに、自分がいちばん雑に扱っている。そんな気がした。うれしい、悲しい、疲れた。3語くらいで一日を片づけて、寝ている。もっと奥があったはずなのに。そういう朝に、青山美智子の「人魚が逃げた」を再生した。
「人魚が逃げた」というひとこと
ある3月の週末、SNSに「人魚が逃げた」という言葉がトレンド入りする。ただ、それだけ。誰が言い出したのかも、本当の意味も、誰も知らない。なのに、その6文字が、いろんな人の生活の隙間にするりと入り込んでいく。
登場するのは、何かを持て余している人たち。仕事、家族、自分自身。うまく言えない気持ちを抱えたまま、日々をやり過ごしている。そこに「人魚が逃げた」という、意味の定まらない言葉が落ちてくる。意味がないからこそ、その人の中にある形のないものが、そこに吸い寄せられていく。誰の話が、どう重なっていくのかは、聴く人の楽しみに残しておきたい。
名前のない感情を、そのまま渡す
この作品の芯は、たぶん「わからなさ」をわからないまま扱えることだと思う。人魚が逃げた、の意味を誰も説明しない。登場人物たちも、自分の気持ちに、きっちりした名前をつけられているわけではない。それでも、ページが進むごとに、読んでいるこちらの奥のほうが、少しずつ動いていく。
朝考えていた内受容感覚の話と、ここで繋がった。感情に名前をつけるのは、わかりやすくするためじゃない。むしろ逆で、わからないものをわからないまま、きちんと自分のものとして持っておくための作業なんだと思う。「人魚が逃げた」という言葉自体が、まさにそれだった。意味を決めない言葉だからこそ、いろんな人の、名前のつかない感情の置き場所になれる。
声が、間を運んでくる
下妻由幸さんとくわばらあきらさんの朗読で聴いた。何人もの視点が切り替わる連作の構成だから、声が変わるたびに、部屋の空気まで変わる感じがする。文字で読んでいたら流してしまうであろう、ひと呼吸の間。そこに、言葉になる手前の感情が、確かに乗っている。
内受容感覚の研究では、体の感覚を聞き取る力の話だったけれど、朗読を聴くというのも近い。声のわずかな揺れ、間の長さ。目で追う文字にはない、体で受け取る情報がある。イヤホン一つで、誰かの「言えなかったこと」が、胸のあたりまで届いてくる。
聴き終えて、残ったもの
聴き終えて、すぐに感想が出てこなかった。それも、たぶんこの本の効き方だと思う。うれしい、悲しい、では片づけられない読後感。胸のあたりに、まだ何か残っている。その正体を急いで言葉にしなくていい、と、この本が教えてくれた気がする。
明日からすぐに何かが変わるわけじゃない。ただ、自分の中の名前のない感情を、雑に3語で片づけずに、少しだけ、そのままそこに置いておけそうな気がする。そういう夜が、たまにあってもいい。