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今朝、ミルグラムの実験を読み返していた
今朝、ミルグラムの服従実験のことを学んでいた。白衣の人に「続けてください」と言われるだけで、人は他人に電気ショックを与え続けてしまう、というあれ。有名すぎて、知った気になっていた話だ。
でも今回引っかかったのは、実験の結論そのものじゃなかった。付随して出てきた条件の話のほうだ。相手の姿が見えないほど、相手の声が届かないほど、人は強い電圧まで進んでしまう。逆に、相手と同じ部屋にいて、手を取って押さえつけなければならない設定にすると、途中でやめる人が一気に増える。
つまり、結果が見えないことが、人を残酷にする。悪意じゃなくて、距離が。そこを読みながら、ずっと本棚の隅で気になっていた一冊を思い出した。薬丸岳の「悪党」。あれは、まさに「見えなかったその後」を、わざわざ見に行く話だった。
老夫婦の依頼は、たった一つのことだった
主人公は探偵事務所で働く佐伯という男。ある日、老夫婦が事務所を訪ねてくる。息子を殺された夫婦だ。犯人は少年だった。少年院を出て、もう社会に戻っている。その男が、今どこで、どんな顔をして生きているのかを調べてほしい。依頼は、それだけ。
佐伯は最初、この仕事に乗り気じゃない。当然だと思う。調べてどうするのか。復讐の材料にするのか。知って楽になることなんて一つもないんじゃないか。それでも所長に押し切られる形で、調査が始まる。
そして、佐伯自身も同じ側の人間だということが、早い段階でわかる。姉を殺されている。犯罪被害者遺族。だから彼は、依頼人の気持ちがわかりすぎる。わかりすぎるから、動けない。この「わかりすぎる人が、他人の傷を調べに行く」構図が、この本の骨だ。
許すためでも、憎むためでもなく
聴きながら何度も思ったのは、これは「許せるか」の話ではないな、ということだった。もっと手前の話だ。相手が、生きている人間として、どういう輪郭をしているのかを見に行く話。
ミルグラムの実験で人がやめられた条件は、相手の姿が見えていたことだった。悪党で起きているのも、方向は逆だけど、同じ種類のことだと思う。加害者は事件の日で止まった記号になる。名前と罪名だけの塊になる。遺族にとって、それは当然のことだ。誰も、殺した相手のその後を知りたいとは思わない。
でも記号のままにしておくと、その人はいつまでも記号のままだ。憎むにも、憎み方がわからないままになる。佐伯が一件ずつ調べていく先で出てくるのは、更生した美しい姿でも、ふてぶてしい悪人でもない。もっと中途半端で、生活の匂いのする、面倒くさい人間だ。その面倒くささが、いちばん、こたえる。
地の文が、報告書の温度で読まれる
この本を声で聴いてよかったと強く思ったのは、佐伯の一人称が、ずっと抑えられているところだった。ナレーターの黒羽保さんの読みが、感情を盛らない。事実を並べる速度で進む。調査報告書を読み上げているみたいな温度で、淡々と進む。
だからこそ、たまに佐伯の内側が漏れる箇所が刺さる。声のわずかな沈み方でわかる。文字で読んでいたら通り過ぎたであろう一行が、耳だと通り過ぎられない。声は、逃げ場がないから。
あと、これは聴いてみて初めて気づいたことだけど、調査の対象になっている人物たちの言葉が、朗読だと「証言」に聞こえる。目撃者の話を、自分が直接聞いているような感じになる。佐伯と一緒に、玄関先で立ち話を聞かされている感覚。この距離の近さは、耳のほうが強い。
聴き終わって、しばらく動けなかった
終盤に何が起きるかは書かない。ただ、この本は最後に、読み手を安全なところに置いてくれない。ずっと佐伯の隣で聴いてきた分、こちらも当事者みたいな場所に立たされる。どう繋がるかは、聴く人の楽しみとして残しておく。
聴き終わって、しばらくイヤホンを外せなかった。すっきりしなかった。すっきりしないのが正しい本だと思う。誰かを許す物語でも、断罪する物語でもないから。
残ったのは、朝に読んだ実験の話と同じ場所だった。距離があると、人は雑になる。相手が見えないと、人はどこまでも進める。その逆をやるのは、しんどい。見に行くのは、しんどい。それでも見に行った男の話を、たしかに聴いた、という感触だけが残っている。